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第三章「銀糸の魔法」

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-16 10:01:54

 月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。

 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。

「おはよう、紬さん」

 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。

「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」

「薔薇園のこと?」

「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」

 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。

「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」

「すごい……もう調べたんだ」

「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」

 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。

「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」

「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」

 昼休み、二人は図書室に行った。

 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。

「見て、これ」

 紬が一冊の本を開いた。

 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。

「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」

 紬は興奮した様子で説明した。

「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」

 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。

 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。

「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」

 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。

「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」

「どうして?」

「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」

 紬は自嘲的に笑った。

「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」

「そんなことない」

 胡蝶は強く言った。

「紬さんの刺繍は、本当に美しい。それは誇るべきことだよ」

 紬の目に涙が浮かんだ。

「ありがとう、胡蝶さん。そう言ってもらえて嬉しい」

 放課後、二人は美術準備室を訪れた。

 顧問の高村たかむら先生に、薔薇園のプロジェクトについて相談するためだ。

「へえ、面白い試みだね」

 高村先生は、若い女性教師で、現代美術が専門だった。

「記録と創作を組み合わせるのは、とてもアート的なアプローチだよ。文化祭で展示してみたら?」

「文化祭……?」

 胡蝶と紬は顔を見合わせた。

「うん。『消えゆく薔薇園の記憶』みたいなテーマで、写真と刺繍作品を展示するの。きっと素敵だと思う」

 高村先生の提案に、二人の心が高鳴った。

「でも、文化祭まで三ヶ月しかないわ」

 高村先生は腕を組んで言った。

「紬さん、三十二種類の薔薇を全部刺繍できる?」

「やります」

 紬は即座に答えた。

「絶対に完成させます」

 その決意の強さに、高村先生も胡蝶も驚いた。

 それからの日々は、目まぐるしく過ぎていった。

 胡蝶は毎日薔薇園に通い、一つ一つの薔薇を丁寧に撮影した。朝の光、昼の光、夕暮れの光――時間によって変わる薔薇の表情を、全て記録しようとした。

 紬は放課後、マリアンヌのアトリエに籠もって刺繍を続けた。

 最初に選んだのは、ピエール・ドゥ・ロンサールだった。淡いピンク色の大輪の薔薇。

「この薔薇は、フリルのようなたくさんの花びらが特徴なの」

 マリアンヌが教えた。

「だから、花びらの重なりを表現することが大切よ」

 紬は白い麻布に下絵を描いた。鉛筆で薄く輪郭をとり、どの部分にどの色の糸を使うか計画を立てる。

「糸は、DMC社のものを使うといいわ」

 マリアンヌは引き出しから、何百色もの刺繍糸が並んだ箱を出した。

「フランスの老舗メーカーで、色の種類が豊富なの。ピンクだけでも、二十種類以上あるのよ」

 紬は慎重に糸を選んだ。濃いピンク、淡いピンク、ほとんど白に近いピンク――微妙な濃淡の糸を五本選ぶ。

「まず、一番濃い色で花びらの縁を刺すの。ロング&ショートステッチでね」

 マリアンヌが実演して見せる。

 針に糸を通し、布の裏から表へ、表から裏へ。長い針目と短い針目を交互に入れることで、次の色との境界を自然にぼかすことができる。

「次は、少し薄い色で内側を刺していく。こうやって、徐々に中心に向かって色を薄くしていくの」

 紬も針を動かし始めた。

 最初は手が震えた。でも、徐々に慣れてくると、針の動きがスムーズになる。

 一針一針、糸が布の上に色を重ねていく。

 時間が経つのも忘れて、紬は刺繍に没頭した。

 窓の外では夕陽が沈み、部屋に薄暗さが訪れる。マリアンヌがランプに火を灯した。

「休憩しましょう、紬さん」

「もう少し……あと、この花びら一枚だけ」

 紬の集中力は途切れない。

 胡蝶も時々アトリエを訪れて、作業の様子を見ていた。紬の横顔は真剣で、まるで祈りを捧げる修道女のようだった。

「すごいね、紬さん」

 胡蝶が囁いた。

「こんなに根気のいる作業、私にはできない」

「でも、楽しいの」

 紬は針を動かしながら答えた。

「一針一針、薔薇が生まれていく感覚がある。まるで、私が庭師になったみたいで」

 その言葉に、マリアンヌが微笑んだ。

 一週間後、最初の作品が完成した。

 ピエール・ドゥ・ロンサールの刺繍だ。

 白い麻布の上に、驚くほどリアルな薔薇が咲いていた。花びらの重なり、微妙な色の濃淡、光を受けて輝く質感――全てが本物のようだった。

「素晴らしいわ、紬さん」

 マリアンヌは感動して言った。

「あなたには本当に才能がある。この調子で、他の薔薇も刺繍していきましょう」

 でも、紬の表情は曇っていた。

「でも……これじゃまだ足りない」

「え?」

「薔薇の姿は表現できた。でも、薔薇の魂が足りないの」

 紬は作品を見つめて言った。

「マリアンヌさんの作品には、魂が宿ってる。見る人の心を動かす何かがある。でも、私の刺繍には、まだそれがない」

 マリアンヌは優しく紬の肩に手を置いた。

「魂は、技術では表現できないの。あなたが薔薇をどれだけ愛しているか、それが伝わったとき、初めて魂が宿るのよ」

「愛……?」

「そう。技術は手段に過ぎない。大切なのは、何を伝えたいかという心よ」

 紬は深く考え込んだ。

 その夜、紬は自分の部屋で薔薇園のことを思い出していた。

 初めてあの庭を訪れたときの感動。マリアンヌの温かい笑顔。胡蝶と一緒に過ごした午後の時間。

 そして、あの庭が失われるという事実。

 紬の胸に、温かくて切ない感情が溢れてきた。

 愛しているものが消えてしまう悲しさ。

 でも同時に、それを残したいという強い想い。

 翌日、紬は新しい作品に取りかかった。

 今度はアイスバーグという白い薔薇だ。

 でも、今度は何かが違った。

 針を刺すたびに、紬は薔薇園の記憶を思い出した。朝露に濡れた白い花びら。風に揺れる姿。マリアンヌが優しく撫でていた仕草。

 一針一針に、想いを込める。

 この薔薇を愛していること。この庭を残したいこと。美しいものが消えてしまう切なさ。そして、それでも生きていく希望。

 気がつくと、涙が頬を伝っていた。

「紬さん……?」

 胡蝶が心配そうに声をかけた。

「大丈夫。泣いてるんじゃないの」

 紬は涙を拭いながら笑った。

「ただ……嬉しいの。こんなに何かを愛せることが」

 胡蝶も目頭が熱くなった。

 一週間後、アイスバーグの刺繍が完成した。

 それを見たマリアンヌは、静かに涙を流した。

「これよ、紬さん。これが魂の宿った刺繍よ」

 白い薔薇の刺繍は、ただ美しいだけではなかった。

 そこには、儚さと強さが同居していた。消えゆく美しさへの哀惜と、それでも咲き続けようとする生命力が感じられた。

「見る人の心を動かすわ」

 マリアンヌは作品を胸に抱きしめた。

「ありがとう、紬さん。あなたは本物の芸術家よ」

 その言葉に、紬は初めて自分の才能を認めることができた。

 それから、紬の創作は加速した。

 プリンセス・ドゥ・モナコ、パパ・メイアン、クイーン・エリザベス――一つ一つの薔薇に向き合い、その個性を刺繍で表現していった。

 胡蝶は写真撮影を続けながら、紬の成長を見守った。

 最初は技術を追求していた紬が、徐々に心で刺繍するようになっていく過程は、まるで蝶が羽化するようだった。

 そして、二人はもう一つの計画を進めていた。

 文化祭での展示だ。

「タイトルは『記憶の庭園』でどう?」

 胡蝶が提案した。

「いいね。マリアンヌさんの言葉みたい」

 二人は展示の構成を考えた。

 写真パネルで薔薇園の全体像を見せ、その横に刺繍作品を展示する。そして、マリアンヌとアンリの物語も、短い文章で紹介する。

「訪れた人に、あの庭の美しさを感じてほしいの」

 紬は真剣な顔で言った。

「そして、美しいものを守ることの大切さを考えてほしい」

 六月も半ばを過ぎた頃、事態が急変した。

 マリアンヌから連絡があった。

「再開発のスケジュールが早まったの」

 電話口の声は震えていた。

「来年の春ではなく、今年の十二月に取り壊しが始まるそうよ」

 胡蝶と紬は、すぐに薔薇園に駆けつけた。

 マリアンヌは庭のベンチに座り、呆然と薔薇を見つめていた。

「あと六ヶ月……」

「マリアンヌさん……」

 胡蝶が隣に座った。

「大丈夫よ。覚悟はしていたから」

 マリアンヌは微笑もうとしたが、その目には深い悲しみがあった。

「でも、アンリに申し訳なくて。彼が愛したこの庭を、守りきれなかった」

「そんなことありません」

 紬が言った。

「マリアンヌさんは、何十年もこの庭を守ってきたじゃないですか。それは、誰にでもできることじゃない」

「そうよ」

 胡蝶も続けた。

「そして、私たちがこの庭の記憶を残します。刺繍と写真で。きっと、百年後の人たちも、この庭の美しさを知ることができる」

 マリアンヌは二人の手を握った。

「ありがとう。あなたたちに会えて、本当によかった」

 その日、三人は夕暮れまで庭で過ごした。

 薔薇の香りに包まれながら、過去と現在と未来について語り合った。

 美しいものは消える。

 でも、愛した記憶は消えない。

 その真実を、三人は静かに確認し合った。

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