Masuk月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。
いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。
「おはよう、紬さん」
胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」
「薔薇園のこと?」
「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」
紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。
「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」
「すごい……もう調べたんだ」
「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」
紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。
「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」
「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」
昼休み、二人は図書室に行った。
刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。
「見て、これ」
紬が一冊の本を開いた。
それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。
「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」
紬は興奮した様子で説明した。
「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」
胡蝶は紬の横顔を見つめていた。
こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。
「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」
胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。
「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」
「どうして?」
「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」
紬は自嘲的に笑った。
「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」
「そんなことない」
胡蝶は強く言った。
「紬さんの刺繍は、本当に美しい。それは誇るべきことだよ」
紬の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、胡蝶さん。そう言ってもらえて嬉しい」
放課後、二人は美術準備室を訪れた。
顧問の
「へえ、面白い試みだね」
高村先生は、若い女性教師で、現代美術が専門だった。
「記録と創作を組み合わせるのは、とてもアート的なアプローチだよ。文化祭で展示してみたら?」
「文化祭……?」
胡蝶と紬は顔を見合わせた。
「うん。『消えゆく薔薇園の記憶』みたいなテーマで、写真と刺繍作品を展示するの。きっと素敵だと思う」
高村先生の提案に、二人の心が高鳴った。
「でも、文化祭まで三ヶ月しかないわ」
高村先生は腕を組んで言った。
「紬さん、三十二種類の薔薇を全部刺繍できる?」
「やります」
紬は即座に答えた。
「絶対に完成させます」
その決意の強さに、高村先生も胡蝶も驚いた。
それからの日々は、目まぐるしく過ぎていった。
胡蝶は毎日薔薇園に通い、一つ一つの薔薇を丁寧に撮影した。朝の光、昼の光、夕暮れの光――時間によって変わる薔薇の表情を、全て記録しようとした。
紬は放課後、マリアンヌのアトリエに籠もって刺繍を続けた。
最初に選んだのは、ピエール・ドゥ・ロンサールだった。淡いピンク色の大輪の薔薇。
「この薔薇は、フリルのようなたくさんの花びらが特徴なの」
マリアンヌが教えた。
「だから、花びらの重なりを表現することが大切よ」
紬は白い麻布に下絵を描いた。鉛筆で薄く輪郭をとり、どの部分にどの色の糸を使うか計画を立てる。
「糸は、DMC社のものを使うといいわ」
マリアンヌは引き出しから、何百色もの刺繍糸が並んだ箱を出した。
「フランスの老舗メーカーで、色の種類が豊富なの。ピンクだけでも、二十種類以上あるのよ」
紬は慎重に糸を選んだ。濃いピンク、淡いピンク、ほとんど白に近いピンク――微妙な濃淡の糸を五本選ぶ。
「まず、一番濃い色で花びらの縁を刺すの。ロング&ショートステッチでね」
マリアンヌが実演して見せる。
針に糸を通し、布の裏から表へ、表から裏へ。長い針目と短い針目を交互に入れることで、次の色との境界を自然にぼかすことができる。
「次は、少し薄い色で内側を刺していく。こうやって、徐々に中心に向かって色を薄くしていくの」
紬も針を動かし始めた。
最初は手が震えた。でも、徐々に慣れてくると、針の動きがスムーズになる。
一針一針、糸が布の上に色を重ねていく。
時間が経つのも忘れて、紬は刺繍に没頭した。
窓の外では夕陽が沈み、部屋に薄暗さが訪れる。マリアンヌがランプに火を灯した。
「休憩しましょう、紬さん」
「もう少し……あと、この花びら一枚だけ」
紬の集中力は途切れない。
胡蝶も時々アトリエを訪れて、作業の様子を見ていた。紬の横顔は真剣で、まるで祈りを捧げる修道女のようだった。
「すごいね、紬さん」
胡蝶が囁いた。
「こんなに根気のいる作業、私にはできない」
「でも、楽しいの」
紬は針を動かしながら答えた。
「一針一針、薔薇が生まれていく感覚がある。まるで、私が庭師になったみたいで」
その言葉に、マリアンヌが微笑んだ。
一週間後、最初の作品が完成した。
ピエール・ドゥ・ロンサールの刺繍だ。
白い麻布の上に、驚くほどリアルな薔薇が咲いていた。花びらの重なり、微妙な色の濃淡、光を受けて輝く質感――全てが本物のようだった。
「素晴らしいわ、紬さん」
マリアンヌは感動して言った。
「あなたには本当に才能がある。この調子で、他の薔薇も刺繍していきましょう」
でも、紬の表情は曇っていた。
「でも……これじゃまだ足りない」
「え?」
「薔薇の姿は表現できた。でも、薔薇の魂が足りないの」
紬は作品を見つめて言った。
「マリアンヌさんの作品には、魂が宿ってる。見る人の心を動かす何かがある。でも、私の刺繍には、まだそれがない」
マリアンヌは優しく紬の肩に手を置いた。
「魂は、技術では表現できないの。あなたが薔薇をどれだけ愛しているか、それが伝わったとき、初めて魂が宿るのよ」
「愛……?」
「そう。技術は手段に過ぎない。大切なのは、何を伝えたいかという心よ」
紬は深く考え込んだ。
その夜、紬は自分の部屋で薔薇園のことを思い出していた。
初めてあの庭を訪れたときの感動。マリアンヌの温かい笑顔。胡蝶と一緒に過ごした午後の時間。
そして、あの庭が失われるという事実。
紬の胸に、温かくて切ない感情が溢れてきた。
愛しているものが消えてしまう悲しさ。
でも同時に、それを残したいという強い想い。
翌日、紬は新しい作品に取りかかった。
今度はアイスバーグという白い薔薇だ。
でも、今度は何かが違った。
針を刺すたびに、紬は薔薇園の記憶を思い出した。朝露に濡れた白い花びら。風に揺れる姿。マリアンヌが優しく撫でていた仕草。
一針一針に、想いを込める。
この薔薇を愛していること。この庭を残したいこと。美しいものが消えてしまう切なさ。そして、それでも生きていく希望。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
「紬さん……?」
胡蝶が心配そうに声をかけた。
「大丈夫。泣いてるんじゃないの」
紬は涙を拭いながら笑った。
「ただ……嬉しいの。こんなに何かを愛せることが」
胡蝶も目頭が熱くなった。
一週間後、アイスバーグの刺繍が完成した。
それを見たマリアンヌは、静かに涙を流した。
「これよ、紬さん。これが魂の宿った刺繍よ」
白い薔薇の刺繍は、ただ美しいだけではなかった。
そこには、儚さと強さが同居していた。消えゆく美しさへの哀惜と、それでも咲き続けようとする生命力が感じられた。
「見る人の心を動かすわ」
マリアンヌは作品を胸に抱きしめた。
「ありがとう、紬さん。あなたは本物の芸術家よ」
その言葉に、紬は初めて自分の才能を認めることができた。
それから、紬の創作は加速した。
プリンセス・ドゥ・モナコ、パパ・メイアン、クイーン・エリザベス――一つ一つの薔薇に向き合い、その個性を刺繍で表現していった。
胡蝶は写真撮影を続けながら、紬の成長を見守った。
最初は技術を追求していた紬が、徐々に心で刺繍するようになっていく過程は、まるで蝶が羽化するようだった。
そして、二人はもう一つの計画を進めていた。
文化祭での展示だ。
「タイトルは『記憶の庭園』でどう?」
胡蝶が提案した。
「いいね。マリアンヌさんの言葉みたい」
二人は展示の構成を考えた。
写真パネルで薔薇園の全体像を見せ、その横に刺繍作品を展示する。そして、マリアンヌとアンリの物語も、短い文章で紹介する。
「訪れた人に、あの庭の美しさを感じてほしいの」
紬は真剣な顔で言った。
「そして、美しいものを守ることの大切さを考えてほしい」
六月も半ばを過ぎた頃、事態が急変した。
マリアンヌから連絡があった。
「再開発のスケジュールが早まったの」
電話口の声は震えていた。
「来年の春ではなく、今年の十二月に取り壊しが始まるそうよ」
胡蝶と紬は、すぐに薔薇園に駆けつけた。
マリアンヌは庭のベンチに座り、呆然と薔薇を見つめていた。
「あと六ヶ月……」
「マリアンヌさん……」
胡蝶が隣に座った。
「大丈夫よ。覚悟はしていたから」
マリアンヌは微笑もうとしたが、その目には深い悲しみがあった。
「でも、アンリに申し訳なくて。彼が愛したこの庭を、守りきれなかった」
「そんなことありません」
紬が言った。
「マリアンヌさんは、何十年もこの庭を守ってきたじゃないですか。それは、誰にでもできることじゃない」
「そうよ」
胡蝶も続けた。
「そして、私たちがこの庭の記憶を残します。刺繍と写真で。きっと、百年後の人たちも、この庭の美しさを知ることができる」
マリアンヌは二人の手を握った。
「ありがとう。あなたたちに会えて、本当によかった」
その日、三人は夕暮れまで庭で過ごした。
薔薇の香りに包まれながら、過去と現在と未来について語り合った。
美しいものは消える。
でも、愛した記憶は消えない。
その真実を、三人は静かに確認し合った。
七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。 花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。 胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。「季節によって、庭の表情が全く違うの」 胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。「この変化も、記憶の一部として残したい」 紬の刺繍も、順調に進んでいた。 すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。「まだ足りないの」 ある日、紬は悩ましげに言った。「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」「大作?」「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」 それは途方もない計画だった。 一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。「時間が足りないわ」 マリアンヌが心配そうに言った。「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」「でも、やりたいんです」 紬の目には、強い決意の光があった。「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」 マリアンヌは深く頷いた。「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」 それから、紬の生活は刺繍一色になった。 朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。「紬さん、大丈夫?」 ひかりが心配そうに声をかけてきた。「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」「大丈夫」 紬は笑顔を作った。「やらなきゃいけないことがあ
月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。「おはよう、紬さん」 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」「薔薇園のこと?」「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」「すごい……もう調べたんだ」「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」 昼休み、二人は図書室に行った。 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。「見て、これ」 紬が一冊の本を開いた。 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」 紬は興奮した様子で説明した。「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」「どうして?」「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」 紬は自嘲的に笑った。「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」「そんなことない」 胡蝶は強く言った。「紬さんの刺繍は、本当に美しい。
翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。 いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。 門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。「おはようございます、マリアンヌさん」「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」 マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」 二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。 朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」 胡蝶は水やりをしながら尋ねた。「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」 マリアンヌは遠い目をして言った。「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」「ご主人の……?」「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」 マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」 その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」 マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」「素敵ですね」 胡蝶は心から感動して言った。「でも、幸せは長くは続かなかったの」 マリアンヌの声が少し震えた。「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」「マリアンヌさん……」「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯
五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。 御厨胡蝶は通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。「胡蝶ちゃん、また止まってる」 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。 二人は桜丘高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。「おはよう、胡蝶さん」 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山紬だった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。「おはよう、紬さん」 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。 昼休み、ひかり